2014年06月22日

“忘れ残りの記”または古家あるじの“譫言(うわごと)” 5

 思い出―「全国重文民家の集い事始め」のころ

 昭和40年代に入るまで民家の指定はごく少数であった。日常生活にさほど大きな変化は生じない反面、平生の維持保存は全く所有者の負担であることも変わりがないのだから、“お上”との煩わしいお付き合いは避けて静かに自分の手で保存していこう、という所有者もあったとか、ややこしい文化財指定候補になろうという家は少なかったとも仄聞したように思うが、一つには評価の基準が厳密過ぎたのかも知れないし、指定されても難儀なことが増えるばかりと認識されていた面があったかも知れない。それが昭和40年代中頃だったかと思うが、“滅び行く民家”という見出しのグラフ雑誌が登場したりしてマスコミが華々しく取り上げ、文化庁が緊急調査を実施するなどのことがあったせいか、指定民家が急増した。

 これぞ大きな契機と、出しゃばりが大阪・奈良の有志所有者に声をかけたところから、現在の“NPO法人全国重文民家の集い”の成立に至ったが、30年余りの年月の流れは 思いの外に早かったなと、今更ながら驚いているような有り様ではあるのだが。



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2014年06月19日

“忘れ残りの記”または古家あるじの“譫言(うわごと)” 4

Ⅲ 「最初の民家指定」にまつわる聞き覚えのエピソード―
 

 昭和20年代の主屋復元修理最中に、今の文化庁、当時の文化財保護委員会の主任調査官が時々来訪された。その時宿舎での雑談として聞いた「最初の民家指定」にまつわる挿話も忘れ難いエピソードのひとつである。

 候補に上がったわが家の指定について、当初、客座敷の室内意匠の美術工芸品的価値を高く評価して、客室棟だけ指定してはとの案がベテラン技官の方から出たのに対し、若手技官たちから、民家の指定は神社仏閣などとは全く違った観点から考えられるべきであり、理想を言えば一つの集落の建物全部、一歩譲っても一軒の家屋敷の建物全部を指定するべきだとの反論が出たそうである。最終的に歩み寄った結果が居住棟をも含めた主屋全体の指定だったという。聞いたその事実よりも嬉しかったのは、太平洋戦争開幕前夜という全体主義、挙国一致、などのスローガンが叫ばれた頃に、文部省内では若手も自由に意見を言える雰囲気が生きていたのか、という思いだった。またそのエピソードは、明治以来の文化財保護行政の在り方に対して“コペルニクス的転換”がなされたことをも示しているのではないか、などと勝手な想像を巡らしたりしたものであった。

 その反面、中国大陸での戦乱が拡大して太平洋戦争の泥沼に陥るきっかけの時が最初の民家指定の前月、昭和12年の7月であり、次に小川家(京都市)が指定されたのは昭和19年、敗戦の前年だったことと思い合わせて、民家の指定には常に重苦しい現実が付きまとってきたのか、などと暗く重苦しい感想を抱いたものでもあったが、あの暗い戦乱の時代にも、文化・文化財への施策は脈々と続けられていたことの証明でもあることを思えば、なかなかに意義深いこととして受け止めるべきだとも言えよう。いずれもまた、忘れ難い回想の一齣ではあるが、しかしまた、住まいがそのまま文化財に指定されることは、取りも直さず両刃の剣に等しく、所有者とその家族に物心両面での大きな負担を強いる結果となって行くこともまた、たしかな事実ではある。もっとも、最初の指定当時、幼かった私には全く関わりのない事柄ではあったのだが。



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2014年06月16日

“忘れ残りの記”または古家あるじの“譫言(うわごと)” 3

Ⅱ わが家の指定にまつわる聞き覚えのエピソード断―

                                           

 民家最初の指定にまつわる聞き覚え、忘れ残りの一つをまず記そう。指定に至るまでには色々な挿話があったようだが、幼い頃からいろいろと聞かされたエピソードの中で今も記憶に新しいのは、指定のための最終的な視察に来られた当時古建築学会の大御所的存在だった伊藤忠太博士が“この家は古くてモダンな家だね”と漏らされたという一言である。父は、よほど感銘深かったのだろう、いつも口癖のように語っていたものであった。



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