2015年05月09日

当主の聞き書き(15)



(見学者の思い出)

質)見学者で思い出に残るのは?

答)沢山の人に来ていただいた。有名な人も多かったが不思議にその時は

  家に居なかったことが多い。勤めていたから。

  写真家のノーマン・カーバー氏、緑川洋一氏、土門拳氏、

  建築家の藤森照信氏、

  皇族では東伏見伯爵様、高松宮様、 

  映画監督では篠田正浩さんが「沈黙」や「槍の権左」のロケに庭を使われた。

  その他ほんとに大勢の人たちに来てもらっている。ありがたいことでした。

  (終わり)

  これで、聞き書き第一部を終わります。読みづらい文をお読み続け頂いて、

  ありがとうございました。当主の思い出でした。

  第二部は当主の建屋各所の説明になりますが、どのような形態でアップするのが

  良いのか、検討してからアップする予定です。



posted by yoshimura_tei at 16:18| 当主の聞き書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

当主の聞き書き(14)



質)解体修理は何年かかった?

 



答)延べ昭和26,27,28年と三年だが、実質丸二年だったか。



解体の最中に、母のたきが亡くなった。完成を見ていない。

 



質)「重文民家の集い」を発足させたのは?

 



答)先代松坪が亡くなる前年に話が出て、亡くなって私が当主になった昭和  52年8月に全国組織を結成した。小川さんの家で結成総会をやった。当時の幹事で今残っているのは3人だけか。

 



  長老が会長をやってくれると思っていたが、旗振り役のお前がやれということになって、今に至るまで代表幹事を続けている。その後会員が増えたが、今は130軒くらいかな。



 



  当時、住み難くなった家の問題とか、相続の問題とか、修理の問題とか



  いろんなことに、重要文化財の家は皆が困っていた。そうした問題には



  一人ひとりで対処しなければならなかった。

  



  集まってみんなで助け合おうというのが趣旨だった。



  当初は近畿だけで始まり、同好会のようなものだったが、次第に物言う団体の時代もあったが、今はまた情報交換の場になっているような感じでもある。



 



  建物も個人所有から「旧○○家住宅」というように個人所有で無くなってき  



ているように思える。

(続く) 



posted by yoshimura_tei at 20:36| 当主の聞き書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月24日

当主の聞き書き(13)



(解体修理の頃)

 



質)飛びますが、昭和26年ころに解体修理が始りますね。

 



答)昭和25年に文化財保護法が出来、重要文化財に指定替えになったが、



  そのころ解体復元の話が出てきた。

 



修理責任者の浅野清先生とこの部屋で話をしたが、その話に若い私は感動した。まず修理にあたってどんなことを考えて修理にあたるかというお話である。「当初この家を建てた大工には、一貫したデザイン思想があったはずだ。

 



ところが、人が住んでいくうちにいろいろな事情で手直しされてきて、オリジナルデザインが壊されてきた。住むからには当たり前のことだったが、



今回の解体時を機会に出来るだけオリジナルデザインに戻したい。立派な建築に戻るはずだ。

もう一つは「素材の問題である。柱とか梁とかの素材はいつか必ず滅びるものだが、当初の一貫した様式、考え方をしっかり持っておれば復元はできる。」 素材の保存で無くて様式の保存を大切にしたいというお話だった。

 



「復元」か「現状復帰」かに迷っていた20代の私はこの話の内容に



感動して、一も二もなく「復元」に同意した。

 



(後から考えると、責任者間では、方向は復元に話は決まっていたように思える。話し合いは、単に住んでる家族に納得させるためだったかもと思う)



 



ところが、修理が終わってみれば、愕然とした。もう 住めない家になっていた。居間の形が違う、土間が大きく変わっている、水道も使えないような形になってしまっている。



やむなく我々は別家屋に住むことになった。

(続く) 



posted by yoshimura_tei at 20:51| 当主の聞き書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする